成長痛

 「大人になったら死ぬのだ」と、なんとなく思っていた。

 根拠は無い。理由も無い。漠然としたその未来予想を、今ならば夢だと鼻で笑うことも出来る。子供のままで生きれるのだと思っていた。子供のままで死ねるのだと思っていた。そろそろ20歳になる。あ、大人になるんだ。と、最近ようやく諦めがついた、気がする。

 小さい頃の夢ってなんだったっけ。アイドルとか、歌手とか、女優とか、声優とか。そんなものばかり夢見てたような。自分は特別な存在なのだと疑わなかったし、未来に希望しかなかったし、幸福の絶頂で死ぬのだと思っていた。社会に刷り込まれた「女」の役割と、「若い女」の価値を盲信して隣人は何故ああも意地汚く生きるのだと軽蔑したこともある。他者が抱くそれに違和感を覚えたとて、自身の価値観に対して適応などされない。しかし世の中には老人が多く溢れているわけで、なんでそんなに生きようとするんだろうかという幼い頃からの問いに、最近、死にたくなることの方が稀有らしいと答えを見つけた。というか多分、みんな、そんなに考えて生きていない。

 最近また眠れなくなった。夜が怖いし、明日が怖いし、眠るのが怖い。意識が剥離する夢を見る。眠りに落ちるその瞬間の夢を見る。感覚的には壁に背をつけて立っていて、意識だけがストンと床に座るような、体という膜に覆われ半透明の私が内側からそれを観測しているような。目を開けても瞼の裏が見えるばかりだったし、いくら周りを見ても呼吸は一定数で。変化の無い鼓動に焦りを感じながら意識の中でもがいていると、ハッと、突然肺に酸素が入り込んで、目を覚ます。荒い呼吸と鼓動。嫌でも生きていると感じ、意識があることに、体が意識下に置かれていることに安心感を覚える。瞼の裏には明日の嫌なことばかりが回っていて、明日ものうのうと生きることばかりが巡っていて。寂しいとかとは、ちょっと違う。虚しいのだ。胸の内にぽっかりと穴が空いたような。きっと人と居れば満たされるのだろうけど、寂しいとは、少しだけ違う気がする。
 明日も生きていることに一定の恐怖がある。死にたくないと思うことに一定の罪悪感がある。生きていてはいけないと言うより、今まで経験してきた生存の苦痛を元にしたふんわりとした予測と、これから得るであろう楽しいことや嬉しいことなどを天秤にかけると、圧倒的に前者が重いだけ。生存の許しは誰に乞えば良いのだろう。お優しい他所様から否定も肯定もされずに酸素を無駄に消費している。やわい呼吸の制限に、少しだけ安心する。

 あと少しで生まれてから20年が経つ。年齢で何かが変わるとは思えないけど、けれど周囲からの扱いは確実に変わる。もう大人なんだから、と言われることが増えた。あれだけ恐れていたことが現実になりつつある。生きることも、死ぬことも、許してくれるような優しい人など居ないのだから、結局全部諦めて、人並みに、平凡に、生きるしかないのだ。

 熱も出ないし吐けもしない。生活に支障だって出てないし、血が出るような傷なんかひとつもない。痛いのは嫌い。辛いのも嫌い。なんとなく嫌、だけじゃ生きてけないの分かってるくせに、どうして私は今日も辛いふりをしているんだろうか。
 どこからどう見ても恵まれた環境で死にたくなるのは、ただの気の所為かワガママだって理解している。でもまだ、あと少しだけ子供のままでいたい。そうじゃないと諦められない。
 温い楽園での呼吸の仕方がわからない。ただ漠然と明日も呼吸と生存を続けていることがこんなにも苦痛なのは、ネバーランドに逃げられなかったせいだろうか。

 ピーターパンなんか居ないのを分かってるくらい、大人になっちゃった。

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