原罪

 神は何故自殺を良しとしないのでしょう。

 ヨブ記によれば、私たちの命は全て神からの賜りものであり、生死の判断を下すのは神の采配であるべきそうなのです。主は与え、主は取られる。生存の苦しみは原罪故ですし、2000年以上前からありとあらゆる問いに答えを当て嵌めてきた宗教というものには、経典に大体のことが書いてあります。
 まぁそれはそれとして。宗教は誰のためのものなのでしょう。様々な答えはありますが、私が思うに、神とは生者のための存在なのです。現世に生きる私たちは未だ死者の国を知りません。誑かされ、罪を擦り付け、楽園を追放された私たちがその罪から作り出した神という存在を、救いにして生きる人々がいます。大昔の偉い人は政治に宗教を絡めたことで民衆を操ろうとしたわけですが、何故人は神を信じるのか。それは、いつだってロクなものではない世の中に、耐え難いような生存の苦しみに、意味を見出そうとしたからではないでしょうか。信じるものは救われる。キリスト教において——私の解釈ではありますが——生存の苦しみは原罪だけのものではなく、より多くの隣人を愛するためとされています。ぬくぬくと幸福で愛に満ち足りた家庭で育った人間がそうでない者を理解しないように、死んでしまいたいと思うまでに数多の他人に救われてきた人間がそうでない者を理解しないように、苦しみを理解するには、苦しみに対しての解像度が求められます。想像力のディテールが濃ければ濃いほど、隣人を労る気持ちは強くなります。イエスの最期は皆様ご存知のことと思いますが、彼がそれまでの人生で得たものは苦しみばかりでした。男を知らぬ女の元に命を宿し、馬小屋で生まれ、弟子には裏切られ、侮られて人に捨てられ、悲しみに暮れ、病を知り、軽蔑され、人々に見捨てられ。
 イザヤ書によると、主は我々の罪を全てイエスに負わせたとされています。彼には弟子が多くいましたし、支持者もまた多くいました。処刑にかけられる前にどこかへ逃げ出すことも可能でしたが、彼はそれをしませんでした。何故か。何故、主はイエスを遣わされたのか。それは、人間の苦しみを知るためです。人間の苦しみを知ることで、より多くの人間を愛そうとしたのです。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、いらだたぶ、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える。愛は決して滅びない。悔い改めれば罪人だって許されます。この世の誰一人として、人間が人間に、罪を定めることは出来ません。何故って、我々は全て、楽園を追放されたその瞬間から、罪人だからです。
 あぁ、いえ、話が逸れましたね。自殺は何故、罪なのでしょう。殺人は罪と言いますが、主は人類最初の殺人が成された際、カインがアベルを殺した際、こう言われました。「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる」怨念、というものの存在は立証されてはいませんが、地球に人間が存在しているように、偶然の一致を必然と言う人もいるでしょう。呪いというのは成就した人間しか話をしないから広まるのです。希死念慮を、きっと誰しも持っています。死にたい、という願いは思えば思うほど強くなり、そうしていつしか、プツリと切れます。主が与えてくださった命の期限を守ることなく、捨て去るのです。さて、先程私は悔い改めれば罪人だって許される、と書きましたが、悔い改める人間がそもいない場合、どうなるのでしょう。神は生者のための存在です。死んだ後にどんなに悔やんだって罪は変わりません。物言わぬ有機物になった存在に、神は良しとは言いません。ですから自殺は、罪なのです。罪を犯したまま悔い改める機会さえ溝に捨てる、最悪の罪なのです。

 ここまで書きましたが、残念ながら私も日々死を願う人間です。きっと神がおわしますならば、私には怪訝な顔を示すでしょう。まぁ。

 その神様も、人間の原罪によって産み出された想像の産物なんですが。

 鶏が先か卵が先か。はてさて。きっと死んでも分かりませんね!

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