溺れる

 1年前まで高校生だった。
 高校生活は部活しかしてなかった。
 私は結構な成績を残したこともある、それなりに強豪の演劇部にいた。先生はそれなりに厳しかったし、真っ暗になるまで稽古して、合宿して、反省会して、キラッキラの青春だって言っても過言じゃないくらいに、空気の濃い、充実した時間を生きていた。


 さて、芝居とはなんだろう。

 いろんな答えがあると思うし、それぞれが正しいと思う。演技に答えなんかない。自分を殺すことだって演技だろうし、役になりきるのだって演技だろう。でも。

 でも、私にとって芝居はただの嘘っぱちだ。

 私の演技は全部嘘っぱちだった。全部全部理論建てて1から10まで計算された舞台。それが私にとっての演劇で、芝居だ。
 他人になるって誰かが言う。んなわけないだろ。なれる訳あるか。私は私以外の何者にもなれないから嫌いなんだ。見られる角度、表情の見え方、声の伝わり方、間のとり方、立ち位置、関係性、テンポの作り方、空気感。全部キャラクターがやってる訳じゃない。全部ホンモノなわけがない。他でもない私が、主導権を握っているのだ。全部計算され尽くした手垢のついた宝石でしかない。これを石ころだと叫ぶのだって、全部計算だ。選び取った答えだ。

 たまに朗読する。あれも読む前に凡そ計画を立ててから読む。計画というのは、この辺大事だからテンポ落とそうとか、この辺はサラッと読んでいいとか、ここは声のトーン上げたらいいかもとか、そういうのだ。感情込めてとか言うけど込めたことなんかない。そういう声色、そういう表情、そういう詰まらせ方、表現の仕方はいくらだってある。その中からたったひとつ、みんなの何かに刺さるような答えを考えて選んで、表せば、おしまい。私が泣いてなくても客は勝手に泣いてくれる。そういう感情の時体はどのような状態か、演技なんかそんなもんである。見え方、見せ方が世界の全てであるのだから。嘘を本物にするんじゃなくて、嘘を本物っぽく伝えるだけ。そもそも感情に流されてちゃ演者なんてやっていけるわきゃねーだろとは、私個人の意見である。

 ただ、やっぱり演技してる内に自分とごっちゃになってくる瞬間がある。あっついPARの500が私の横顔を照らしてじわじわと焼き付け、頭は真っ白の癖に、スルリと言葉が落ちる瞬間が、ある。

 それを迫真の演技とは呼ばない。最っっっ高に気持ちいい瞬間はもっとあるから。だってその時、私というひとりの人間はフッとどこかに消えてしまって、そこに居るのはキャラクターだけ。そんなの、偶像としては赤点もいい所じゃないか。

 演技するのは好きだった。答えを選ぶ作業が好きだった。相手の答えと私の答えを一致させて、それが伝わると本当に嬉しくて、少しずつ自分の武器が増えていくのは楽しかったし、なにより、照明が落ちた後のあの、一瞬の静寂が、嘘だらけの舞台と嘘なんかひとつもない現実が混同するあの瞬間が、なにより、好きだった。
 その瞬間のために、舞台を生きていた。
 あの二酸化炭素でいっぱいの息苦しさが、好きだった。


 以上、青春の延長線が終わってしまった私がお送りしました。

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