頭の中の青春

 ド素人だが創作小説を書いている。私の年齢が19で、小説を書き始めたのは12歳の、手前。未だネットの海を漂う処女作はちょっと検索すればすぐ出てくるようなそりゃもうとんでもねぇ黒歴史である。できることなら消し去りたいが、まぁみんなそんなようなもんだろう。多分。

 小説を書いているのは、7年ほど。文字列だけ見ると何となく多い気もするが実際そんなことはない。本格的に創作活動にのめりこむようになるまではただ時折日々の感傷や衝動を書き起こしていただけである。7年間、ずっとそう。言うなればそれは呼吸に等しく、義務には成り得なかった何か。自分でもここまで続いている理由が言語化しにくい。だって冷静に考えてみてほしいけど、12歳から19歳なんて、青春時代に他ならないだろう。私という存在を形作った日々に、なぜかいつも、創作がいる。普通に頭がおかしい。


 それはさておいて。

 創作ってなんだろう。いろんな答えがあって然るべきだけど、話を進めるためたった一つにまとめます。異論も認める。

「情報の簡略化作業」

 これに尽きる。かっこいいから太くしてみた。

 当たり前のことだが言葉には限界がある。どんなに感銘を受けた美しい景色も作品も、言葉というちっぽけなものに納めたら1KBいくかすら怪しい。感情とかいうものは、網膜に焼き付いた光景とかいうものは、鼓膜に触れた音とかいうものは、肌で感じたその電気信号は、直線と曲線のインクごときに表せるはずがない。表せていいはずがない。目で見ている景色とカメラで写した光景が全然違うのと似たようなもんである。


 ここで冒頭に戻るが、私の青春時代は果たして何に捧げられてきたか。私の貴重な7年間は何に消費されてきたか。

 それは創作、ないし、————情報の簡略化作業、である。



 思い出は美しい。その時に感じた曖昧ななにかを想像できる余地があるからだ。空白は美しい。隙間はいじらしい。足りないくらいが丁度いい。ミロのヴィーナスにも言われているように、「ない」から「良い」のだ。定型のない曖昧でふわふわななにか、名前も付けられない欠落した美。皆様にも言えるのではなかろうか。思い出の中の綺麗ななにか、曖昧でふわふわな何か。


 私の思い出はと言えば皆様と同じようにもちろん…………覚えていない。全く。何となくの情報はあっても実感が伴わない。自分の記憶であるという確証がこれっぽちもない。私の過去だと胸を張って言える理由がどこにもない。振り返っても闇があるのみである。というか、私がこうやって思い出すと言ってる感覚は本当にあるんだろうか。誰かと比べようがないのに。要はそういう抽象的な何かをまとめて呼んでるんだろうか。みんなこんなんなんだろうか。話題がズレた。

 何でこんなことが起こるかっていうと、私は綺麗なもの、素敵なもの、心を動かされたこと、を、簡略化してきたからである。私は私の感情をコンテンツ化して保存しているわけだ。自分のことを書くのはどことなく恥ずかしかったから、私はいつも私の得た感情や衝動を、「誰かのもの」にして話を書いていた。今でもメモ帳の底に残っているのがひとつある。失望された時の話だ。読むと何となく思い出す。当時の感情とか、そういうの。今の私にはない感情なのがちょっと新鮮でまだ残している。あとは確か、メモ整理の時に消したような。


 キラキラの青春時代、思い返しても、確証がない。あれは現実だったんだろうか。私が感じたはずの何かはもう、名前を付けて保存されていて、15KBに納められた、別物なのかもしれない。


 夏の、青春の話を書きたいと思った。

 でも私の青春は、空白がなんかひとつもない、#87ceebの空でしかなかった。



 以上、最近心が死んでる私がお送りしました。

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